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トロールの森から、旅先の街角から

このコーナーでは、日々の出来事、音楽のこと、食のこと、私たちが考えていることを、
ここトロールの森から、旅先の街角から、日記を書くようなつもりで綴っていきます。

ブログをはじめました。こちらのページのページもぜひご覧ください。

 
2007年12月10日
「大切なクリスマスプレゼント」
トロールの森 にて
みさ 記

 窓の外は、真っ白な雪。ふわっとしていて、軽そうで。まるで、たくさんの小さな羽が大地を覆っているみたいだ。
 クリスマスが近い。
 カードを壁に貼って、キャンドルをあちこちに置いて・・・。準備は着々と進んでいる。
 最後は、クリスマスツリーの飾り付け。もちろん、プレゼントも添える。ささやかなものたちにまじって、今年はとびきりのプレゼントを飾った。陶製の白い天使の人形、アイアンでできた一輪のバラ、それに手作りのイースターエッグ。すべて、この秋チェコの小さな村でいただいたものだ。
 今年のヨーロッパは寒かった。連日雪で、風が強い日も多かった。路面のほとんどがアイスバーンという状態で、全天候型という怪しいタイヤは滑りっぱなしだった。
 早い話、車が溝にはまってしまったのだ。チェコのとある村の教会の前で。助けを求めようにも、通行人はいないし、通りかかった車に手を挙げても、みな素通りして過ぎていく。見慣れぬ東洋人には関わりたくないのだろう。途方に暮れ、小一時間が経っただろうか。ようやく一台の車が止まってくれた。
 「寒かっただろう」。車の主は、はまった車を引き上げてくれた後で言い、「お茶でも飲んでいくかい?」と聞いた。むろん、チェコ語はわからないので、すべてジェスチャーである。たしかに、体は芯から冷え切っていた。できればトイレもお借りしたい。結局言葉に甘えて家へ行き、英語を話す息子さんやおばあちゃんにも紹介され、気が付くと、ごはんまでごちそうになっていた。察するに、彼らは、かつて隣村に住んでいたドボジャークがオルガンを弾きに度々訪れたという、この村の教会の写真を撮るために、はるばるやって来た日本人がいるという事実が、何よりうれしかったのだろう。「ああ、それで。せっかくだから中を見せてあげよう」と、わざわざ鍵を取りに行って開けてくれ(もしも彼らに出会わなければ、教会の中には入れずじまいだったことだろう)、別れ際、プレゼントまで渡してくれたのだ。
 「こんなことって、あるんだね」。バックミラーにみなが消えてから、ぼそりと夫が言った。 2 人とも、喜びを通り越えて、呆然としている。「災い転じて福となるって、こういうことを言うんだね」。こんなときにことわざなんて、と思いながら、けれど、そんなことしか私も言えない。なんだかしみじみとして、温かくて、それきり 2 人とも無口になった。
 今もチェコは、雪に包まれているだろうか。彼らのクリスマス、きっとステキなのだろうな。ささやかで、つつましくて、でもすべて手作りで、温かくて。
 もう二度と、あの村を訪れることはないだろう。そして、もう二度と彼らに会うこともないだろう。でも、ずっと忘れない。
 外は雪。心をこめて、メリークリスマス。

     
 
2007年11月30日
「旅の終わりを感じる瞬間」
ウイーン にて
みさ 記

 にぎやかなケルントナー通りを一人で歩く。空は重たく曇っていて、吐く息は白く、かじかんだ手と足の先は、すでに感覚を失い麻痺している。
 どれくらい歩いただろう。
 心の中を整理したくて、今日は別行動をしている。たぶん夫は、今頃マーラーの住居を探しているはずだ。オペラ座から路面電車に乗って。
 音楽が生まれた風景を追って、ドイツからチェコ、そしてウィーンへとたどり着いた今回の旅も、もうすぐ終わろうとしている。バッハ、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、リスト、ワーグナー、マーラー、スメタナ、ドボジャーク・・・。彼らの音楽を、それぞれのゆかりの地でひたすら聴く。それは、いつものことながら、資料からこぼれ落ちた「何か」を拾う旅でもあった。
 けれど。
  心の中を覆っている、このもやもやとした気持ちは何だろう。たしかに、今回それぞれの地で「何か」を拾ったはずだった。バッハって、こんなに小さな町を転々としたのだ、とか。シューマンが身を投げたライン川って、こんなに川幅が広いんだ、とか。スメタナの「わが祖国」は、こんなに自然豊かな場所で作られたのか、とか。一つ一つの出来事は鮮明で、音楽はより近くなったというのに、何かが足りない気がしているのだ。まだ旅は終わっていない。そんな気がして、ウィーンの街へ飛び出した。これまで何度も訪れた街へ。
 ポケットに手をつっこみ、ひたすら歩く。モーツアルトのフィガロハウス、シューマンが滞在した家、ショパンのプレート・・・。路地裏をあてもなく巡り、それでも頭はぐるぐるしていて、そうしてケルントナー通りにたどり着いた。
 人混みに立ち向かうように足早に歩き、ふと、視線を落としたそのとき、あ、と思った。地面にショパンのサインプレートがある。続いてシューマン、リスト、ワーグナー・・・。今回の旅でテーマとした作曲家の名が、歩を進める度次々と現れる。これまで何度も目にしてきた星形のプレート。それが、なぜかこのとき、心の奥深くに、すとん、と落ちた。
 みんな、ウィーンにいたのだ。
 そう思った瞬間、見慣れた街が、ジオラマのように立体的に浮かび上がった。それぞれの想いがうずまく、生々しい街となって。
 当時埋もれていたバッハの「マタイ受難曲」を発掘し、ほぼ 100 年ぶりに再演したのはメンデルスゾーンだった。そのメンデルスゾーンと友人で、ブラームスを発掘したのがシューマンで、そのシューマンの妻クララに恋心を抱き、作風でワーグナーと比較され続けたのがブラームスだった。そして、そのブラームスに影響され、交友を結んだのがドボジャークで、むろんドボジャークは、同国の先輩作曲家スメタナを意識していた。一方ワーグナーは、リストにさんざん世話になり、しかも彼の娘を妻とし、そのワーグナーの作品に惹かれたマーラーは、度々その作品を指揮者として取り上げた。つまり、みんなつながっているのだった。
 「だからね、そういうこと」。
 待ち合わせをした、インペリアルホテル横のマクドナルドで、夫にそう報告すると、「ふうん・・・」と、声なのかなんなのかわからない、くぐもった音が返ってきた。 1 ユーロの薄いコーヒーをすすりながら。
「そっちは、どう?」聞くと、「マーラーの家も、探すのが大変でさ」と、待っていたように話し始める。「へえ・・・」。今度は私が、声にならない音を返す。やはり、 1 ユーロのコーヒーを飲みながら。それから、 2 人同時に、ゆっくりと息をついた。
 旅は終わり。
 それぞれ、また一つ心の引き出しを増やして、我が家に帰る。

     
 
2007年11月16日
旅人の夕暮れ
ヨーロッパ にて
みさ 記

 雪の中に、ぽつんと一つ家がある。窓から洩れる、オレンジ色の灯。
 ドイツ・チューリンゲン地方の田舎道。
 大地はうっすらと雪を被り、葉を落とした木々の枝一つ一つに、白い縁取りができている。
 ぬくもりが恋しい冬の夕暮れ。それは、異国の地にいることを、しみじみ感じる時間でもある。
 「よそ者としてやってきて、よそ者のまま去っていく」 ― 。孤独を抱えた一人の青年の心の痛みが歌われる、シューベルトの 24 の歌曲集「冬の旅」。その 1 曲目「おやすみ」の中の言葉が、今日は特に胸に染みる。
 シューベルトが、ドイツの詩人、ヴィルヘルム・ミュラーの作品「冬の旅」に曲をつけたのは、 30 才のときだった。 26 才で病にかかり、すでに死期を悟っていたシューベルトと、恋に破れ、社会からも孤立し、絶望を抱えて旅をする「冬の旅」の青年。両者が紡ぎ出す、救いのない寂しさを持つこの作品は、翌年、シューベルトの意識がなくなる直前まで、ベッドの上で手が加えられた。
 享年 31 才。その間、作品が楽譜出版されたのは、歌曲を中心に数えるほど。 1000 近くも作品を作ったのに。歌曲というジャンルを、家庭で楽しむ音楽から、芸術的なレベルまで引き上げたのに。当時のウィーンは、彼を正当に評価しなかったのだ。
 「僕は愛を歌いたかったのに、僕が歌うと、それは苦しみになった。こんどは苦しみを歌いたいと思うと、それは愛になった。こうして僕の心は、愛と苦しみに引き裂かれた」。父親との軋轢から、友人の家を転々としながら生涯を終えた、シューベルトの言葉はせつない。
 雪が降り出した。どこまで行けば、光は射すのだろう。
 今日も一日が終わっていく。

     
 
2007年10月25日
ある秋の日
トロールの森にて
昭彦 記

 もうすっかり秋だ。朝晩の冷え込みは厳しくストーブは欠かせない。
 昔から秋という季節が一番好きだった。
 少し肌寒い朝、庭を歩いてみる。澄んだ空気、高い空、薄き雲、朝露に輝く草原、霧の中に浮かび上がるベンチ・・・。芸術の秋というけれど、どこからか創作意欲が湧いてくる。夏の去った静けさの中、やっと自分に帰る時間がやってきた。

     
 
2007年10月18日
BIRTHDAY
麻布十番 にて
昭彦 記

  ここ何年か誕生日をトロールの森で迎えていない。一昨年はワルシャワで、昨年はベルゲンと異国で迎えていた。今年は東京だ。部屋のある階からは雪化粧した富士山が望め、革張りの椅子のある部屋からは東京タワーが手に取るように見えた。天蓋付きのベッドはオートリクライニング付きで食事はすべてルームサービス、ボタンを押すとスタッフもすぐ駆けつけてくれる。そんなところで一週間ほど快適な?生活を送った。話せば長いのだが、昨年夏に始めて夏風邪というものを体験した。激しい喉の痛みに続き高熱におそわれ、その日は動けなくなってしまった。高熱があるからといって宿の仕事を休むことも出来ず、風邪薬や解熱剤なんかを試しながら仕事、声を使い続けていた。それが祟ったのだろうか喉の調子は悪化する一方だった。声はほとんど出なくなり、ついに話すことも出来なくなってしまった。秋には少し回復したが、冬場の乾燥した空気にやられ症状はまた元に戻ってしまった。半年たった春、これはおかしいと思い病院に行き診察して頂いた。「声帯にポリープが出来ていますね」と内視鏡で撮影した写真を見せながら先生はおっしゃった。すぐ入院というわけにもいかず、宿の方が一段落する秋までまた半年待って手術をすることにした。もうおわかりと思いますが東京での滞在というのは入院生活の事だったのだ。四十数年生きてきて全身麻酔の手術はおろか入院さえも始めての経験だった。ところが悪友達からさんざん聞かされた全身麻酔手術の前評判とは違い、手術はあっという間に終わってしまった。術中のベッドは快適で特に体にかけていただける毛布にはヒーターが入っており極楽浄土にいるかのように心地よかった。手術終了後、名前を呼ばれ起こされてしまうのだが「もう終わっちゃったの?もう少しいさせて・・・」って感じであった。夕方には点滴を付けてはいたが病院内を自由に探検に出かけられるくらいに回復した。ただ大変なのはこれから一週間、声を使えないと言うことだった。入院前に持参物として筆談帳とペンが記されてはいたが、話すことを禁じられると言うことはかなりストレスが溜まることだ。声だけではない、咳払いもくしゃみもいけないのだ。そう言われると人間、痰が絡んでくる気がするし、鼻もむずがゆくなってくるというものだ。誕生日には東京に住む友人達がお見舞いに来てくれたのだが、筆談というのは結構照れくさいものだ。汚い字を見られるわけだし、漢字が出てこなかったりして恥をかいたりする。それにおかしい話に笑ってもいけないのだ。北海道に戻る日も大変であった。何とか昼食は食券の店で声を使わず逃げられたのだが、問題は羽田空港のカウンターで起こった。筆談帳に「足下に余裕のある席が空いていましたらお願いします。」と書いて受付の女性に見せたのだが、それに対し言葉ではなく「手話」で返されてしまったのだ。受付カウンターにいるスタッフ全員?が手話をマスターしているということにもびっくりだが、とっさの事にどうしていいのかわからないでいる自分に驚いた。ただ今回ほど携帯メールというもののありがたみを実感した事はなかった。十年前であればどうやってこの事態を凌いだだろう? トロールの森でペチと一緒に留守番をしてくれていた妻との連絡には携帯メールや写メールが活躍した。これは遠く離れていても声を使わずして会話できる(チャットのような感じ)・・・という事をあらためて実感した瞬間だ。仕事上の打ち合わせだって入院していることも気付かれず、やりとり出来たのだから・・・。これは本当におそれいった。
 さて、まだ何日か話すことは禁じられている。声出しを解禁されてからも歌をうたったり大声を出したり出来るようになるまではまた何週間かかかる。徐々にリハビリをしていって元に戻るのは早くて三ヶ月後だ。 これからは無理しないよう、大切に体を声を使っていこうと思うのだ。

     
 
2007年9月27日
私たちの東京
東京 にて
みさ 記

 年に 2 、 3 度、東京へ行く。
 「人」に会うためだ。
 お世話になっている人の事務所に行ったり、知り合いのコンサートを聴きに行ったり、フランスで知り合ったソムリエが経営するワインバーに行ったり。不思議だけれど、東京に住んでいた 5 年間よりも、離れてからの方が、行動範囲は広いかもしれない。
 もしも東京に住んでいたら、もっといろいろな人に会えるのに。そう思ったことももちろんある。けれど、その度、今東京で会う人たちは、トロルドをやっていなければ知り合えなかったのだな、という事実に思い至るのだ。北海道に移り住んでいなければ、今の自分はない。そんな当たり前のことを、ふと思ったりするのもまた、東京だ。この地で何にも属していないという気楽さが、物事を俯瞰して見る方向へと向かわせるのかもしれない。
 もちろん、いろいろな場所へも足を運ぶ。たとえば、広尾の路地裏や目黒区の小さな雑居ビル、ときには、花小金井の住宅街へも。「人」と会うためには、どこだって出かけていく。そのくせ、東京タワーや六本木ヒルズや丸ビルなどには、未だ足を踏み入れたこともないのだ(もちろん、その近くに会うべき「人」がいて、行き帰りにちらっと横目で見ることはあるけれど)。考えれば、ちょっと変わった東京滞在ではある。
  9 月、知り合いのご家族から、ステキなホームパーティに招待していただいた。
初めて降り立つ駅で、教えてもらった道順を復唱しながら、並木道を過ぎ、無人の有機野菜販売所をひやかし、公園にいる野良猫に声をかけ、目指すお宅にたどり着いたのは、夕方の 6 時過ぎ。バラの苗でいっぱいのガーデンには、すでにキャンドルが灯され、暮色の空の下で、オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れている。まずはガーデンで、乾杯のクレマン・ド・ブルゴーニュ。それから、澄んだ湖を思わせるスペイン・カタルーニャの白ワインを、続いてテラスで、やはりふくよかなスペインの赤ワイン、そして最後は、百合の香りに包まれた部屋の中で、日本茶を飲んだ。お腹の中は、イタリア産のチーズや薫製、じゃがいものアンチョビソース和えや、土佐から取り寄せたという鰹のたたきなどのごちそうで、いっぱいになっている。何より、楽しく和やかなひとときで、心も温かく満たされている。あっという間に時間が過ぎた。
 今回も、観光はしなかった。これからも、おそらくすることはないだろう。それでも、東京へ出かけていく。そこに住む「人」との、かけがえのない時間を求めて。
 創作の「気」が漂う静かな部屋や、何かを生み出そうという想いにあふれる空気の中で、話をし、心を満たす。それが、私たちにとっての東京なのかもしれない。

     
 
2007年8月5日
オバケさんのコンサート
トロールの森にて
みさ 記

 「こんばんは、オバケです」。
 その言葉に、小さなお客様は、みなくすくす笑う。肩まで伸びたソバージュの髪、がっしりとした体格。手にはトランペットを持っている。たしかに怪しいが、健康的なオバケでもある。
 今日は、オバケさんのコンサート。本業は作曲家で、トランペッターでもある小西さんに、急遽、トランペット 1 本で演奏してもらうことになったのだ。お客様の中心は、子どもたち。夏の 2 ヵ月間だけアメリカから帰ってくる近所の家の子どもたち 4 人と、東京から何度も泊まりに来たことのある小学生のむっちゃんは、オバケさんの登場に、目をきらきらさせている。
 そもそも、小西さんをオバケさんと名付けたのは、子どもたちだった。コンサートを聴きに車でやってきた近所の子たちが、トロールの森でなにやら動くモノと遭遇し、本気でオバケだと思ったらしい。もっともオバケさんにしてみれば、ただ夜の散歩をしていただけだったのだが、闇の中に浮かび上がるシルエットが、相当怪しかったのだろう。子どもたちは、口々に「オバケ、オバケ」と叫びながら、あわててトロルドに駆け込んできた。しかもその騒ぎは、オバケさんが入ってきたときまで続き、すっかりオバケさんは、オバケさんという名前になってしまったのだった。
 オバケさんのトランペットは、日だまりのような音がする。あたたかくて、伸びやかで、まるで、やさしく話しかけられているみたいだ。まずは即興で、今日一日の風景をイメージして、豊かに歌い上げる。そして、クイズタイムが始まった。これは、オバケさんがトランペットで吹くさまざまな動物の鳴き声を、みながあてるというもの。間延びしたようなとぼけた音色や、小刻みに震える音、さまざまに変化するユーモラスな音に、小さなお客様はまず笑い、それから勢いよく答える。そして最後は、堀内氏との即興演奏。進行コードとイメージだけをざっくり決めて、後は出たとこ勝負というスリリングさに、みな身を乗り出して聞いている。
 こうして、楽しい夜はお開きになった。
 夏の夜の、オバケさんのコンサート。音楽は、やっぱり聴衆との対話なのだな。音は、聞く人の心に届けるために、存在するのだな。そんなことを考えて、なんだかしみじみしたのだった。

     
 
2007年7月20日
「今年の庭」
トロールの森にて
みさ 記

木漏れ日の中、涼しげに白い花を咲かせるアカンサス。
釣り鐘状の紫色の花が愛らしいカンパネラ。
そして、アンジェラ、春霞、バレリーナ・・・。白や薄ピンクのバラの苗。
今年、庭の仲間入りをしたばかりの花たちが、楽しげに咲いている。
まだ小さいけれど、
まだ花も少ないけれど、
みな、自分の色で、形で、生きている。
それぞれの持ち場の中で。
「独自なままでいることです。世間ずれしないでね」
フランスの作曲家、ドビュッシーの言葉を思い出す、夏の一日。
美しいって、つまりはそういうことなのかな。

     
 
2007年7月7日
七夕の夕べ  
トロールの森にて
昭彦 記

 テレビで何度となく耳にしたメロディーが今まさにその作曲者自身の手において紡ぎ出されようとしている。毎日のようにテレビから流れるそのメロディーは尺八などのリード楽器と軽やかなリズムセクションに彩られているが、今日はピアノだけでの演奏だ。長い髪がシンコペーションのリズムに呼応して揺れる、なじみのメロディーに聴き入る人々の顔もほころび始めている。それぞれに体でリズムを刻みながら・・・。テレビからでは感じられなかったルートの動き、斬新な和声、テンション感、改めてこの楽曲のすばらしさが心に響いてきた。ゆっくりお辞儀をして彼女はにっこりと微笑んだ。
 プログラムも素晴らしかったし、心のこもった演奏だった。いつも彼女には頭が下がる。どんな時も全身全霊で演奏してくれるからだ。彼女の名は「磯村由紀子」。今日演奏して頂いた NHK の「趣味悠々」のテーマ曲はもちろん、様々な場面で彼女の楽曲は使われ流れてくる。彼女が楽曲を書きリーダーをつとめるバンドやデュオでのコンサートやライブも精力的にこなしているし、アメリカやヨーロッパでの演奏活動、レコーディングも恒例だ。僕個人としてはソロコンサートをたくさんやってほしいと感じた。ソロでは表現できないことがたくさんあって難しい・・・って彼女は言うだろうけれど、ソロでしか表現できないこと、味わえないこともたくさんあるんだな・・・って今夜思ったから。とにかく今日お泊まりの二組のお客様はラッキーだ。やはり音楽は生がいい。そんなことを強く感じさせてくれた素敵な七夕の夕べだった。

     
 
2007年6月26日
「ペチの手術」   
トロールの森にて
みさ 記

 さっきから、愛猫ペチが膝にへばりついている。首の回りには、ラッパ状に巻かれたプラスチック製の板(エリザベスカラーというのだそうだ)。まるで拡声器みたいだ。毛を剃られた腹部が、まだ痛むのだろう。時折体を起こしては、舐めようと試みているけれど、ラッパが邪魔してうまくできない。そうして再び、膝の上に突っ伏すのだ。
 ペチが避妊手術を受けたのは 3 日前。以来、首の回りのラッパと格闘している。たとえば、視界が遮られるせいで、歩くときは首を大きく左右に振らなければならないし、顔をすり寄せて甘えることもできない。ご飯を食べるのもままならず、カバー付のトイレのドアに引っかかって中に入れず、床に粗相をしたこともあった。昨日まで当たり前にできたことが、ある日突然できなくなる。そのショックに、ペチは当初、ただただ、うちひしがれているようだった。それでも、投げやりにならず、かといってあらがうこともせず、この状況に無言で闘い、耐え続けている。
 恋の季節は、突然訪れた。最初の相手は、夫の父親、つまり義父。もっとも、このときはまだ軽症で、もしかしたら・・・と思う程度だった。ところが、2回目で加速した。遊びに来た知人の T 氏を見るなり、ペチはいきなりおしりからすり寄って、みゃーご、みゃーごと、巻き舌のような大声で鳴き続けたのだ。その苦しそうな姿を見かねて、避妊手術に踏み切ったわけだが、もちろん、ペチにその辺の事情がわかるはずもない。
 思えば、健康な体にメスを入れるとは、なんと無謀なことだろう。猫にしてみれば、これほど迷惑で、理不尽きわまりない出来事はないにちがいない。けれど、ペチはけっしてわめかない。このエゴの固まりのような飼い主をも、責めることをしない。
 膝にはっしとしがみついているペチをそっと撫で、ふと我が身を振り返る。そういえば、最近愚痴ばかり言っているな。ずいぶんため息も多いよな。そうして再びため息をつく。
 猫って、本当にすごいなあ。


後日談:ペチのラッパは、 10 日ほどで外されました。そのときのペチのはしゃぎようといったら・・・。ただ、あまりに耐えすぎて、じっとしていたためでしょうか。首のくびれがまったくなくなってしまい、顔も、どことなく朝潮に似てしまった、というおまけがついてしまいました。

     
 
2007年6月20日
「 I さんへの手紙、 2007 」  
トロールの森にて
みさ 記

 お元気ですか?
 今年も庭の季節が訪れました。
 さわやかな風が吹くこんな日は、やはり I さんを思い出してしまいます。 1 年ぶりの手紙ですね。
 今年のトピックは、なんといっても、ピエール・ド・ロンサールという名の大輪のバラ。昨年植えて、冬越しもきちんとしたのに、なんと、春先の 3 月に鹿に食べられてしまったのです。地面から 10 ?ほどを残してぱっくりと。
 これまでも、鹿にはずいぶん泣かされてきました。ライラック、レンギョウ、桜、ナナカマド・・・。どれだけの苗が犠牲になったことでしょう。むろん鹿にしてみれば、特に雪解け間近のこの時期は、残り少なくなった餌を探し求めて、山から下りてこなければならない事情があったのでしょうが、それでも、やりきれない想いでいっぱいです。だから今回も、すっかりあきらめていたのでした。
 ところが、です。 5 月になって、わずか 10 ?ほどの苗から、淡い黄緑色のやわらかな新芽が出てきたではありませんか。そして今、つぼみもでき、もうじき花開こうとしています。生命力って、すごいですね。なんだか私まで、むくむくと力が湧いてきました。
 庭仕事はこんなことの連続です。うまく育てられなくて、がっかりしたり、でも次の日には、予期せぬ新しい生命に勇気づけられたり。そういえば以前、リスのためにと、餌台にひまわりの種を置いていたら、その種が地面に落ち、(もしかしたらリスが埋めたかな?)、芽が出て、花を咲かせたこともありましたっけ。
 さまざまな生命が息づく庭。今年はここで、どんなドラマが繰り広げられるのでしょう?考えると、わくわくします。
 そうそう。バラの師匠とも知り合いになりました。写真は、彼女が丹精込めて育てた花たちです。いつか彼女のように、一つ一つの生命と真摯に向き合えたら。それが、今の私の目標です。もちろん、まだまだ時間がかかるのでしょうが。
  I さん、お元気ですか?たとえ会えなくても、あなたの言葉や存在は、今でも鮮明に、心に残っています。また、手紙を書かせてくださいね。
空の上にも、この想いが届くことを信じて。
それではまた。

     
 
2007年5月18日
新緑の頃
トロールの森にて
昭彦 記

 北海道にもようやく新緑の季節がやってきた。天気もいいし富良野近辺を2人でドライブすることにした。まばゆいばかりの新緑の森に山桜の薄いピンクが彩りを添えている。鳥沼の緑は水面に揺れながら小鳥のさえずりを誘っていた。いつも見慣れていたはずの風景がこんなにも印象を変え鮮烈に心に飛び込んでくるなんて・・・。
 「富良野の街からこんな美しい山が見えてたっけ?」って言葉が飛び出すほど今日の芦別岳は神々しい。ゆっくり山を見たくて八幡丘方面に車を走らせた。何度も通ったはずのドライブコースがヨーロッパを走っているかのように錯覚する。まるでサウンド・オブ・ミュージックのロケ地「ザルツカンマーグート」にいる気分だ。あの丘の向こうからマリアや子供達が今にも走ってきそうだ。
 つらい冬を越えてきたからこそ待ちわびた春、厳しい冬を耐えたものだけが感じられる美。そんなものを糧にヨーロッパ文化は花開いたのかもしれない。 
 同じ感覚をここ北海道で味わえる幸せ。これを感じるだけに終わらせず、何かに生かしていきたい・・・赤く染まりゆく空を眺めながらそんなことを考えていた。

     
 
2007年5月10日
静謐な瞬間
室生寺 にて
みさ 記

 薄暗いのに陰湿でなく、それでいて乾いてもいない、清冽な空気。開放的ではないけれど拒絶しているのでもなく、けれど、ひとたび身を預ければ、懐深く受け止めてくれる杉の巨木。幾百年もの月日を重ねた木立が作り出す、静謐な「気」は、心の奥深くに染み渡り、やがて体全体に満ちていく。
  700 もの石段を登って、ここまで来た。川のせせらぎを聞き、太鼓橋を渡り、日本一小さいという五重の塔や、本堂、金堂、弥勒堂を巡った後、何度も巨木を仰ぎ見ながらたどり着いた、奥の院。
 途中、風が起こり、桜吹雪が舞った。天寿を全うしたものたちの、潔い生の終わり。その姿に、かつてこの道を何度も歩いたであろう、 2 人の写真家、土門拳と入江泰吉の生き様が重なった。
 回廊に座り、杉の巨木たちと向き合った。眺める、とも、鑑賞する、とも違う、対峙する、という感覚で。そして訪れる、たおやかで研ぎ澄まされた瞬間。葉ずれの音や鳥のさえずりは消え、ただ自分の呼吸だけが、その場の波動に同化して動いている、とでも言えばいいのだろうか。それは、はじめて感じる静けさだった。
 あのとき自分は、はたして何を見ていたのだろう。石段を下りながら、ふと思った。杉の巨木という一つの「生」の有り様だろうか。たしかにそれもあるだろう。けれど、一方で、視線は言葉にできない種類のものに向かっていたようにも思うのだ。なにか捉えようのない、とてつもなく大きなもの、と同時に、目をこらしてもなかなか見えない、心の奥の暗い闇、といったものに。
 室生寺がきっかけで、古寺や仏像を撮り始め、半身不随になってもそれを続けた土門拳。失われゆく大和路を、写真という形で残すために半生を費やし、亡くなる 5 分前まで仕事を続けた入江泰吉。作風からいえば、剛と柔、それぞれよさは違うけれど、なぜか等しく 2 人の作品に惹かれるのは、その背後に、深遠な世界が垣間見えるからかもしれない。あのとき奥の院で体感した静けさに通じる、けれど、それよりもはるかに深く、遠いところに存在する世界が。
 眼下に見える室生村の集落が、春の光に輝いている。

     
     
 
2007年4月10日
春の陽ざし
西宮 にて
昭彦 記

 穏やかな春の陽ざしに誘われてライカ片手に神呪寺方面に向かった。神呪寺は西宮市の山の手にある由緒あるお寺である。本尊である如意輪観音座像は、国指定の重要文化財であり「日本三如意輪」の1つに数えられている。けれど今日の主役は、あくまでもこの陽ざしである。柔らかな光が石仏を優しく包んでいる。その傍らではけだるい空気の中、猫たちも昼寝を決め込んでいるようだ。こんな光景をライカのレンズで捉えてみたかった。今日は「ライカ日和」そして「猫日和」でもあるのだ。現像から上がったポジを見てみると石仏の表情は心なしか微笑んでいるようだし、日向ぼっこの猫たちには警戒心がまったくないようだ。あの日の空気がしっかり写り込んでいたので、自分まで優しい気持ちになれるような気がしてきた。

     
 
2007年4月2日
「フィンランドの虹 」
トロールの森にて
みさ記

フィンランドで虹を見た。
トゥースラ湖畔のヤルヴェンパーで。
太くしっかりした七色の帯は、
深緑の木々からゆるやかに上がり、
すぐに鈍色の雲にぶつかって途切れている。
行き場を無くした短い虹。
てっきりそう思っていたら、
かなり後方に着地点を見つけた。
ぶあつい雲のせいで、消えてしまったと思っていたものが、
実はしっかり存在し、ちゃんと着地をしていた・・・
その事実に、なぜか心が震えた。
方向性を見失っている自分の着地点も

どこかにきっとありそうな、そんな気がしたのだ。

「人は自分の力を信じ、
自分が何かを成し遂げると信じることが大切なのだ。
人の強さは、たぶんそこからくる」(ジャン・シベリウス)

P.S 昨秋、ノルウェー出身の作曲家エドヴァルド・グリーグと、フィンランド出身の作曲家ジャン・シベリウスゆかりの地を取材で訪ねました。その記事は、「ピアノスタイル」( 5 月 20 日発売号)という雑誌の北欧特集で掲載されます。自然を心から愛し、その人生に、音楽に影響を受けた 2人の作曲家は、どんな風景を見ていたのでしょう?彼らの生き様と、今も変わらない豊かな自然。 その二つを絡めながら、美しい写真とともに、初心者にもわかりやすく、旅情たっぷりにお届けします。興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。

     
 
2007年3月25日
「 散歩の日々 」
西宮にて
昭彦記

 毎年のことだが、この時期は本州に滞在することが多い。私たちの実家が西宮だったり博多だったり、はたまた打ち合わせは東京だったりするからだ。そんな時は、ほとんど机に向かいっきりなので、一息つきたい時に雪のない平坦な住宅地の中を歩けるのはありがたいことだ。
 カメラや写真の話題ばかりで恐縮ですが、冬の間トロールの森にいるときは大型カメラで早朝の情景を撮影し、朝食後フォトジョギング(前述の)なることをやっていた。だから今ここでライカやニコンなどの比較的小さなカメラを首から下げ、気軽に散歩をしながら撮影を楽しめるのは幸せだな・・・ってしみじみ思ってしまう。
 何よりもリラックスした猫たちに会えるのもいい。猫と出会える町角は決まって車の通りが少ない。ということは、私たち人間にとっても居心地がいいのだ。特に被写体さがしに「うろうろ」、「きょろきょろ」している私には都合がいい。歩き疲れたらカフェなんかもそこかしこにあるし、本屋にもいける。息抜きの散歩のはずなのにしっかり撮影もしている・・・なんて素晴らしいことだろう。そんなこんなで当分散歩はやめられそうにないかな・・・。

     
 
2007年3月20日
「 T3 との旅 」
西宮にて
昭彦記

 フィルムの整理をしていたら、取材旅行のファイルの中に旅の最初から最後までの出来事が 1 本のフィルムに凝縮されているものが必ずあることに気が付いた。思い出してみるとメインカメラ以外に、もしものことを考えてサブカメラで撮影していったフィルムだった。万が一の場合の押さえなので、重要な場面で 1 、 2 カットの撮影で済むわけだ。だからフィルムの使用量は減り、結果として 1 本のフィルムに旅の重要シーンだけが結晶されるわけだ。そんな中、オフカットとしての作品(仕事以外でのカット)も所々に出てくるので後でフィルムを見返すといっそう面白い。秋の寒い朝、車でシャンパーニュ地方に入り、アルザスで猫と格闘、ブルゴーニュの宿を取材後、イタリアの青い空のもとオフ日にフィレンツエを散策し、ブレンナー峠を越えドイツに入り最後の夜はパリで乾杯!・・・何て旅程が 1 本のフィルムを見るだけで思い出せるのだ。それもすべて微笑み色に写っているから不思議だ。
 これらのカットを撮影してきたカメラはコンタックスの T3 。本当に小さなフィルム用コンパクトカメラだ。でもサイズに似合わぬ描写をしてくれる。素敵な出逢いのあったあの朝の霧の匂い、ガス灯が灯るのを待ち続けた夕暮れ時の肌寒さ、子犬に出逢った小さな街の幸せな空気をも写してくれる。今はこのカメラの役目をデジタルカメラが引き継いでいる。でも、こうして見返してみると T3 でなくては残せない気配や空気があることに気が付いた。次の旅からまた T3 を持っていくことになるだろう。

     
2007年3月10日
「 ライカとワインとバイオリン? 」
西宮にて
昭彦記

 春の日差しの中を歩くときは、ライカやニコンにモノクロフィルムを詰めてみたくなる。この穏やかな光は、ライカの古いレンズでなくては写し込めないな・・・なんて偉そうに考えながら。
 ライカの古いレンズは熟成された良き作り手によるブルゴーニュの古酒を思い起こさせる。鋭さや堅さはそぎ落とされ、香り立つロマンだけが妖しげに漂っている。まるでクレモナで作られた古いバイオリンが、物理的に大きな音をがなりたてるのではなく、演奏者の心の詩を一度深く内省し、自らの意志があるかのように裏板をふるわせ、ホールの隅々まで魂を伴い飛んでいくように、ライカのレンズもまた、対象物の表面を解像度だけで切り取るのではなく、撮影者の心の動きとモチーフに内包するエネルギーや存在感をも優しく包むように描き出すのだ。ただ、それを持ったからといって誰にでもそんな表現が出来るわけではない・・・。私もいつか人々の心の奥深くに入り込み、様々な人生を映し出すバイオリストのように、喜怒哀楽を写真で奏でられるようになれたら・・・と、いつも心に願っているのだ。

     
2007年2月28日
「 冬の散歩 」
トロールの森にて
みさ記

 透き通った青い空と、真っ白な山や大地。息を吸い込むと、体中に凛とした空気が満ちてくる。シャーベットのような雪を踏みしめる、シャリッ、シャリッ、という乾いた音。目の前に道はなく、振り返れば、ただ自分の足跡だけが、広い雪面に残されている。
 最初に散歩を提案したのは夫。それだったら用事も兼ねて、駅近くにある郵便局まで歩こう、と言ったのは私。そこで、カンジキで丘を突っ切って行こうということになったのだ。
 こんなふうに、予定がトントン拍子に決まるのは、今日がとびきりいい天気だから。空には雲一つないし、風もない。十勝岳連峰もくっきり見えている。おまけに今年は暖冬で、例年のふわふわ雪に比べると、雪の上を歩いても沈まない。まさに、カンジキ日和なのだ。
 冬の場合、一日の予定は天気で決まる。たとえ買い物に行きたくても、雪や風が激しければ、よほどの緊急でもない限り、外出はなるべく避ける。視界は悪いし渋滞はするし、第一、窓から外を見ているだけで、出かけようという気持ちもしぼんでくる。自然との暮らしでは、人間の都合などまったく通用しないのだ。だからこそ、天気のいい日には、用事をやりくりしてでも出かけたくなる。清らかな世界に身を置いて、体も心も透き通る、そんな感覚を味わいたくて、いてもたってもいられなくなる。
 駅までの道のりは、あっという間だった。夏は絶対に入れない畑の上を、思う存分カンジキで歩き、立ち止まっては深呼吸をする。それだけで、心の奥に巣くっているマイナス思考が一掃されたような、清々しい気分になる。普段遠くに見える丘の上の木々も、真下から見上げると、枝を空いっぱいに広げ、もっと高く、高く、と叫んでいるみたいだ。積雪で目線が高くなる分、木の生命力を、より強く感じるのかもしれない。 
 郵便局で用事を済ませ、顔見知りの犬とひとしきり遊び、再び、丘の上をカンジキで歩いた。今度は、山を真正面に見ながら。しかも目の前には、行きに自分がつけた足跡が、くねくねと見えている。同じ場所でも、向きが変わると印象が違う。もしかしたらものごとも、視点を少し変えるだけで、違う考え方ができるのかもしれない。そんなことを考えていたら、遠くに建物が見えた。 
 「トロルドって、案外小さいんだね」
 夫の言葉に、私はうなずく。そうして、なんだか急に愉快になる。あんなに小さな建物の中で、日々笑い、怒り、喜び、悲しんでいる自分たちが、とても愛しく思えたのだ。
 さあ帰ろう。トロルドへ、日常へ。
 小さな我が家への道を、夫と私はゆっくりと歩いた。

2007年2月21日
「 はじめての遠出 」
トロールの森にて
みさ記

 この冬はじめての遠出をした。 2 泊 3 日の名古屋行き。昨夏のスタッフの結婚式に出席するためだ。
 実は彼女、スタッフをする前に、何度か結婚相手と我が宿に泊まりに来てくれたことがあり、プロポーズも、トロールの森のベンチでされたという。しかも、招待状に添えられた手紙には、「この結婚式は、トロルドハウゲンがテーマです」と書かれてある。これはやっぱり行くしかない、と思ってはみたものの、さて困った。子猫がいる。いったいどうしたらいいだろう。
 子猫のペチは甘えん坊。たいてい朝と昼の食事の後は、膝の上でまったりし、夜は一緒に遊んでいる。それがいきなり 3 日間も、たった一人(一匹、ですね)でいるなんて、絶対無理にちがいない。いろいろ迷った結果、ペットホテルに預けることにした。
 さて当日。キャリーバックに入るときこそおとなしかったものの、ペチは車の中で鳴き続けた。「やさしいお姉さんがいっぱいいるよ」とか、「友達もいっぱいいるよ」などとなだめても通用しない(当たり前か)。鳴きどおしですっかり声も枯れてしまったのに、それでもまだ鳴いている。
 ところが、車を降りた途端、ペチはぴたりと泣きやんだ。そして、そのままおとなしくペットホテルへ。「けっこうあっけないものなんだね」と私。一方夫は、「猫って、こんなものなんじゃない?」と、あくまで平然を装っている。けれど、口数は激減しているから、やはり心配しているのだろう。
 結婚式は、本当にトロルドハウゲンがテーマだった。披露宴では、丘の風景やトロールの森で撮影した 2 人の写真に始まり、途中行われるクイズにも、我が宿に関する問題が登場。さらに、新婦がデザインしたウェディングケーキには、トロールの森にたたずむトロルドハウゲンが再現されていた。プロポーズが行われたベンチには、ハートマークもついている。「 2 人の思い出の場所」として紹介されたトロルドハウゲンが、なんだか夢の世界にあるようで、不思議な気持ちになったくらいだ。そんな 2 人への気持ちを込めて、私たちは祝辞を述べ、ピアノを弾き、感慨深く名古屋を後にした。
 空港へ着き、いざペットホテルへ。ペチとの再会を待っていると、「ペチちゃんって、まだ赤ちゃんなんですよね?」と、店のお姉さんが話しかけてきた。「ええ、まだ 5 ヵ月なんです」答えると、隣にいたお姉さんも、「ペチちゃんって、いつも肩に乗ってくるんですか?」と、少し含みのある笑顔で言う。
 どうやらペチは、相当いたずらをしたらしい。当初はゲージに入れっぱなしという話だったが、猫好きのお姉さんが、好意で外に出してくれたという。ペチはよほどうれしかったのだろう。そのお姉さんにまとわりつき、挙げ句に肩にまで乗ってしまったというわけだ。それを聞いた夫と私は、すっかりしどろもどろになってしまい、以後何を話したかまったく覚えていないほど。まったくもう、ペチったら、などとぶつぶつ言い、「またどうぞ」と笑顔で見送る店の人に頭を下げつつも、逃げるように帰ってきたのだった。
 さて、それから 1 週間。未だにペチは、膝の上からなかなか離れようとしない。毛もずいぶん抜けて、お腹の調子もすこぶる悪い。たしか店の人の話では、下痢もせず元気だったはずなのに。
 思えば、ペットホテルにいた 3 日間、ペチはペチなりに不安と闘っていたのだろう。これからどうなるのかな、このまま置いていかれるのかなと、小さな脳みそで、一生懸命悩んでいたのかもしれない。それでも気丈に振る舞い(それにしては暴れすぎ?)、その緊張の糸が、家に戻った途端一気にゆるんでしまった。膝にへばりついてる姿から、そんな気持ちが読みとれる。むろん、言葉が話せない猫の気持ちを、本当の意味で理解するのは、とても難しいことだけれど。
 ごめんね。鼻の上を撫でながら、ペチにそう言ってみる。ペチはざらざらの小さな舌で、私の手を舐める。そうしてしばらく舐め続け、それから、まるで思いついたように、ふぁーんと一つあくびをした。

2007年2月15日
「 フォトジョギング 」
トロールの森にて
昭彦記

 昔使っていたカメラを引っ張り出してきた。ニコンのマニュアルカメラ、 F2 である。とはいっても 5 年ほど前まで仕事にも使っていたカメラだ。
 なぜそんなカメラを今さら出してきたかというと、最近寝つきが悪かったり、体調が優れないのは、運動不足のせいに違いないと思ったからだ。
 そこで、単純だがジョギングすることを思いついた。ただ走るだけだとつまらないので「写真撮影も一緒に」と考えたわけだ。
 だが、あくまでもメインはジョギングである。最近のカメラはオートフォーカスや自動巻き上げなど一見便利だが大きく重たい。そこにズームレンズなんか付けると、とてもジョギングのお供には適さない。そこで機能的な装備などなく、軽い? F2 に白羽の矢が立ったのだ。 
 ところが、手に入れ 20 年も時を一緒に過ごしてきたはずの F2 の調子がおかしい。巻き上げレバーが反応しないのだ。 一番の愛機だった F2 がどうやら壊れてしまったようだ。5年も放っておいたのだから壊れても当然か? 
 ただ、泣いてばかりもいられない。ここで断念すれば、体調の改善は行われず、作品作りも出来ない。まして自分の体が壊れるなんて事になっては、目も当てられない。 そこで泣く泣くサブ機として当時使っていた F3 を使うことにした。 F3 はバッテリーこそ切れていたが( F2 はバッテリーさえいらない)快調に動いてくれた。ジョギングの服装に専用ベルトでカメラを胸に固定、 35mm レンズを装着。これで軽快なフットワークが生まれるのだ。( 90mm 又は 24mm を付けたりする日もある)
 そしてこの日から私の新しい試み、フォトジョギングが始まったのだ。
 いつもなら、車でビューっと通りすぎてしまうありふれた道が、今日はなんだか宝物の詰まった風景に見える。今まで撮ったことのない廃屋や足下の小さな風景、氷のかけらの中にさえ宇宙が見える・・・そして一面の雪景色の中に春の兆しもたくさん見つけることがた。 後は、体調が良くなれば大成功だ。

2007年2月8日
「 ハンガリーのワイン 」
トロールの森にて
昭彦記

 先日、ブダペスト在住のヴァイオリニスト、浅野未希さんが遊びに来てくれた。 いつもすてきな演奏を聴かせてくれるのだが、私たちのワイン好きを知ってか、ワイン持参で来てくれた。それもハンガリーのワインだ。
 ハンガリーのワインといえば「トカイ」しか知らなかった私だが、彼女のおかげでハンガリーにも色々な産地があることを知った。
 今日は、 TELEKI   VILLANYI   2004 を開けることにした。
 彼女の好きな産地で、ブドウの種類はカベルネソービニヨン。
 カベルネといえばボルドー等、ヨーロッパでも比較的暖かい土地を想像したり、もしくはカルフォルニアやオーストラリアなどの新世界をイメージしたりで、正直ハンガリーとカベルネというのは結びつかなかった。
 静かにコルクを抜き、グラスに注いでみると華やかな花の香りが漂い、口に含むと柔らかな果実味が素直に広がった。  2004 年産だが、カベルネ特有の強靱なタンニンはまるでなく、ハンガリーの冷涼な気候や風景が浮かんできた。良家のお嬢様のような作りの良さ、品を感じるワインである。
 彼女があの日演奏してくれたハンガリーの民族音楽や「チャルダッシュ」などの土臭いイメージはなく、どちらかというと目を閉じたまま祈るように弾いてくれた「タイスの瞑想曲」のように静かに心に訴えかける真摯さと、洗練された輝きを持ったワインのように感じた。
 とにかく、このワインが気に入ってしまったことだけは確かだ。
 今夜は満月。月明かりに美瑛の丘がゆれている。同じ月は、やがてハンガリーのワイン畑も優しく照らすのだろうか? そっと私のまだ見ぬハンガリーのワイン畑に想いを馳せてみた。

2007年1月31日
「 1 月の訪問者 」
トロールの森にて
みさ記

 たとえば、絵画でも音楽でも何でもいい。自分にとって、心に残る作品とそうでないものとの違いは、どこにあるのだろう。そんなことをふと思って、試しに好きな作品をいくつか思い浮かべていたら、一つの共通点があることに気がついた。それは、それぞれの作品の核に「痛み」が存在する、ということ。たとえ完成度が今一つでも、逆に、テクニックを駆使して、一見やわらかな印象に仕上げてあるものでも、その創作の出発点には「痛み」があると感じられるものが、自分はどうやら好きらしい。しかも、その「痛み」が切実であればあるほど、強く心を揺さぶられる。真実に近い気がするからかもしれない。
  1 月、トロルドハウゲンに、 2 人の客人が訪ねてきた。一人は写真家の石井麻木さん、もう一人は、ヴァイオリン奏者の浅野未希さんだ。麻木さんは、 3 月東京で行う個展の作品づくりのために、未希さんは、年末年始を利用して、ブタペストから一時帰省し、その間プライベートで寄ってくれたのだ。
 過ごし方はそれぞれ。昼は自由に過ごしてもらい、夕食と朝食は一緒に食べた。話す内容も、麻木さんとはやっぱり作品づくりについて、また未希さんとは、ブタペストのことや、音楽との関わりについてと、さまざまだった。 2 人それぞれとの会話は、淡々とした冬の暮らしに、ちょっとした刺激を与えてくれた。
 そうして、そもそも麻木さんの作品が、未希さんの演奏が、心に残るのはなぜだろう。そう考えて、やはり「痛み」に行き着いた。
 たとえば、水たまりに映った街灯、青い空に飛んでいった風船、光、影、そして言葉。麻木さんの切り取る世界は、一見何気ないシーンばかり。でも、被写体と出会い、レンズを向け、シャッターを切るとき、おそらく、いつも麻木さんの心は震えている。ひっそりと、でも強く。それが、作品を通してこちらに伝わる。鋭く尖った「痛み」を伴って。
 未希さんの演奏にも、「痛み」を感じる。「チャルダーシュ」のような情熱的な楽曲はもちろんのこと、たとえば、「タイスの瞑想曲」のような穏やかな曲であっても、作曲家と演奏者、それぞれの核にある「痛み」が、ぴたりと寄り添う瞬間、聴く者の心を震わせる。
 「余白と行間、そこには犠牲の蜜が流れている」 ― 。そう言ったのは、ジャン・コクトーだったけれど、もしかしたら、表現にとって大事なのは、実は目に見えるものではなく、見えないものの中にこそ、存在するのかもしれない。たとえば、被写体そのものよりも、シャッターを押す瞬間の心の震えや念、またたとえば、鳴らした音そのものよりも、音と音の間に存在する感情こそが、他者の心を動かすのかもしれない。

  2 人それぞれの歩み、これからも期待したい。

2007年1月22日
「 初心 」
トロールの森にて
昭彦記

 写真家の石井麻木さんと話していて、初めて一眼レフを手にした頃のことを思い出した。彼女は、お父様から譲り受けた古いカメラを使っているのだけれど、(私もつい最近まで同じものを使っていた)このカメラ、ピントはもちろんのこと、露出を自動的に決めてくれるような便利な?機能は付いていない。おまけに露出計は、譲り受けたときから壊れているそうである。露出計の値は全て信じないまでも参考にはしている私は、愚問を投げかけてしまった。
 「露出はどうやって決めているのですか?」 彼女は当然の事のように「野性の感覚(勘)です」とニコリと微笑んだ。その答えに、のけぞり返った私だったが、よくよく考えれば表現者として作品を生み出すわけから、己以外のものに創造の手助けを乞う軟弱な発想などないのが当然かもしれない。
 初めて私が一眼レフを手にしたのは小学生の時。質屋さんのウインドーに並んでいた一番安いカメラをこずかいをためて手に入れた。当時、フィルム箱に書かれている露出表を暗記していて、その箱の表示(絵)通り天候、時間によって露出を決めていた。何百回と撮影しているうちに、それこそ勘で光が読めるようになっていた。撮りたい光景を見た瞬間、これだ!という値が頭にひらめくと言った方がいいだろうか・・・。
 いつからだろう、そう露出計が付いているカメラを使うようになって、その感覚から遠ざかっていった。
 今、身の回りにある道具は表面的にどんどん便利な方向に進化してきている。 パソコンに携帯にナビ・・・私たちはそれらの製品を使うにあたり、どんな感覚やひらめきを捨て去っていくのだろう。
 学生時代、キャンプで日本を回っていた頃、鳥たちのサイクルで寝起きを繰り返しているうちに色々な感覚が鋭くなっていくのを感じていた。わき水や小川の水の匂いがわかったし、時計がなくてもほぼ正確に時間がわかったものだ。
 機械の正確さではなく己の感覚を大切にする・・・これは決して「適当に済ます」ことでも「大雑把に決めていく」ことでもないのだ。いや己の感覚を大切することこそが個を形成する出発点なのかもしれないし、その代償である失敗の中から本当に自分が求めるものや方向性を見つけ出す事ができれば、本望ではないだろうか。そんなことを彼女は考えさせてくれた。

  p.s 石井麻木さんの個展が、 3/15 から 20 まで代官山ギャラリーにて開かれます。是非興味のある方は、行ってみてはいかがでしょう。私たちも行く予定です。

2007年1月16日
「 ティータイム 」
トロールの森にて
みさ記

 午後 4 時、または 5 時。作業の手を少し休め、紅茶を飲む。今日はどの葉っぱにしようか、どの器で飲もうかな。それとも、気分を変えてミルクティにしてみようか。わずか 30 分のティータイムが、とても楽しい。
 今年の冬は、年末年始を除いて宿泊業をお休みにした(冬に泊まってみたいと思っていた方、本当にごめんなさい)。といっても、猫がまだ小さいので、長期で出かけることもお預け。冬ごもりに近い生活を送っている。
 思えば、こんなにじっくりと、自分の時間を過ごすのは久しぶりだった。以前は冬も毎日営業していたし、ここ 5 、 6 年は、書く仕事も加わったので、宿は休みでも、自分の体はフル回転という暮らしを、ずっと続けてきたからだ。たしかに、忙しいことはありがたいことだと、身に染みてわかってはいる。けれど、気持ちに体がついていかないことだって、ときにはある。何より、 15 年間自分の暮らしをおろそかにしてきたツケで、プライベートルームは雑多なモノであふれかえっている。この辺りで、部屋も心も一度リセットをしないと、先に進めないのではないか。そんな想いがむくむくと膨らんでしまい、目下、 15 年分のアカを洗い流すべく、格闘しているというわけなのだ。もちろん、それ以外にも、この冬しなければならないこと、するべきことはたくさんある。けれど、常に時間に追われ、毎日がただ「流れていく」のではなく、まず暮らしの中心には自分がいて、その自分が時間をやりくりしているのだという実感が、心に余裕をもたらしているのかもしれない。
 そこで、ティータイム。今日は、シルバープレートのアンティークのティーポットに、イギリスで買った TWINING の「 The Queen ' s Golden Jubilee 」を淹れることにした。カップは、やはりイギリス製のアンティーク。昨日まとめて焼いたスコーンを、温めて添えてみた。膝の上にいる愛猫ペチの、くるんとカールしたしっぽを撫でながら、紅茶を飲み、窓の外の景色を眺める。今日は山が染まりそう。 
 たかが日常、されど日常。
 幸せは、自分でつくりだすもの。たぶん。きっと。

2007年1月5日
「 山の辺の道 」
トロールの森にて
昭彦記

秋晴れの日、山の辺の道を歩いた
桜井を出たのは昼をとっくに過ぎていたが
急ごうという気はなかった
久しぶりに和を感じる散策である
それも全くのプライベートだ
心だけでなく、身も軽い
神社の境内で休んだり
ご神木からパワーを頂いたり
狭い路地で猫と遊んだり
少し秋色に染まり始めたこの道を
どこまでも歩いていけそうな気がした
あかね色の空に二上山が浮かび上がる
いにしえから変わらぬこの眺め
あの日と今日が交わる瞬間
今日の終着地もそろそろだ
心地よい疲労感、笑み浮かぶ満足感
帰りの列車にゆられながら
闇に消えゆく古路を思い返していた

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